まず最初に「日本基督教団信仰告白」の文理解釈から

 教憲の逐条解釈のはじめとして「日本基督教団信仰告白」を取り上げます。
日本基督教団信仰告白」は、『日本基督教団 教憲教規および諸規則』に於いて「教憲」の前に配置されています、それは日本基督教団に所属する教会・信徒にとって大切な基準は、「聖書」「信仰告白」「教憲」の順であることの証です。
 後に解説する教憲第1条でも「本教団はイエス・キリストを首(かしら)と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるところにしたがって、主の体たる公同教会の権能を行使し、その存立の使命を達成することをもって本旨とする」と定めている事からもそのことが理解できるでしょう。
 この「信仰告白」の神学的な解き明かしは、多くの著名な先生方がなされているでしょうし、神学的な素養の無い私がその解説をすることは出来ません。
 しかしこの文言を、法律・規則として読み解く時に必要な文理的な意味の解釈については解説出来ますので、以下の説明を開陳します。

日本基督教団 信仰告白」第1段落について

 我らは信じかつ告白す。

 第1段落では、信じ告白することの簡明な宣言です。
 主語は「我らは」ですから教団に連なる信徒全員の共同の信仰の告白として宣言されていることがわかります。
 更にこの信仰告白は、礼拝で信徒が共に唱える事を予定して作られていますから、その礼拝に列している信徒・未信徒(求道者)の共同の祈り・告白としてなされる事になります。
 それも「信じかつ告白す」との表現からは、単に心の中で「信じ」るだけではなく、それを口から出して「告白す」と力強く表明する事で「我ら」(=教会)の共同の決意をはっきりと言い表しています。まさに教会共同体としての共同の信仰の告白と服従の表明です。
 ですから、この宣言以降に言い表される告白内容は、教会としての共同の信仰告白として大切にされなければなりません。

日本基督教団 信仰告白」 第2段落について

 旧新約聖書は、神の霊感により成り、キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

 この第2段落全体は、文字どうり聖書が正典で、信仰と生活の誤りない規範であることの表明です。その事を信じかつ口で告白することにおいて、私たちの信仰の基準・根拠が聖書によって与えられているとの信仰の表明とされます。

 第2段落の前段では、「聖書(=旧新約聖書)」が預言者や福音記者という人の手によって書き残されたものであるにしても、それは神の霊感の導きにによって成されたとの理解の表明です。そしてその「聖書」がキリストを証し、福音の真理を示す、教会の拠るべき唯一の正典である事を宣言しています。

 第2段落の後段では、前段で示された「正典たる聖書」は、「聖霊」の導き・助けを介してのみ、神について、救いについて、全き(完全な・全ての)知識を私たちに与えてくださる神様の言葉としての働きを全うし、私たちの信仰と生活の誤りの無い規範・基準となる事を宣言しています。

日本基督教団 信仰告白」 第3段落について

 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子(みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまえり。

この第3段落に於いて、三位一体の神信仰と、我ら罪人の救いのために人となられた御子の犠牲と贖罪による救いの信仰が定義・説明されています。

第3段落の前段では、「主イエス・キリストによって」啓示され、聖書において証される神が三位一体の神であることが、明確に表明され宣言されています。この三位一体の神信仰から、日本基督教団の洗礼(バプテスマ)について、教憲教規には明記されていないけれど、信仰職制委員会がそれは三位一体の神によるバプテスマであるとの態度表明(先例集94.「モルモン教徒が転会を申し出た場合の措置」)が導き出されていますが、その見解の中で、「原則に従って問いただした後、キリストの名によってのみであったとしてもその洗礼は正しいと認める。」との見解を出されている懐の深さに注目したい。

第3段落の後段では、御子が我ら罪部との救いのために人と成ってくださった事。十字架にかかり、イエスご自身を全き犠牲と神にささげ、私たちのための贖いとなってくださった事を信じる信仰が表明されています。いわゆるイエスの犠牲による贖罪の信仰の表明です。

日本基督教団 信仰告白」 第4段落について

 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じょうじゅ)したまふ。

この第4段落に於いては、いわゆる信仰義認の信仰が表明されています。
神による罪の許しと救いは、神の恵みによる一方的な選びによって成されること。ただキリストを信ずる信仰によって実現されること。その恵みの結果として、私たちは聖霊のお助けをいただいて潔められ、義の果を結び、そのことを通して神の御業を成就されると宣言されます。

第4段落の前段では、「神の恵みによる選び」「ただキリストを信ずる信仰による救い」「罪の赦しと義認」が簡潔に表明されています。

第4段落の後段では、「神の一方的な選びを通した信仰義認の恵み」が、イエスの贖罪の時から今までずっと変らない恵みとして続き、私たちに与えられ、その事によって、私たちが聖霊のお働きの助けを受けて、神の恵みの御業を成就させる義の果を結ぶように潔められ用いられる。との信頼と信仰が表明されています。

日本基督教団 信仰告白」 第5段落について

 教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おおやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣(の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

この第5段落に於いて初めて、教会についての定義・見解が表明されます。
「教会は主キリストの体」であり「恵みにより召された者の集い」である事が表明されます。
「教会は、公の礼拝を守り」「教会は、福音をを正しく宣べ伝え」「教会は、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い」「教会は、愛のわざに励みつつ」「教会は、主の再臨を待ち望む」存在であることが表明されます。

第5段落の前段では、「教会が主キリストの体」であり「教会は恵みによって召された者の集いである」とその性格を規定しています。恵みによって召されたものが、主キリストの体である教会を守る責務があることが、ここに表明されているのです。
第5段落の後段では、特に教会の果たすべき五つの大きな役割が明確に表明されています。
ここに、教会の存立の意味とその要求されている働きが示されます。その働きを成就させることが、私たちの結ぶべき義の果である事になります。
「公の礼拝を守り」「福音を正しく宣べ伝え」「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い」「「愛のわざに励み」「主の再臨を待ち望む」この5つは、教会規則の目的として書き表すべきことだとは思いませんか。

日本基督教団 信仰告白」 第6段落について

 我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使途信条を告白す。

この第6段落において、これまで告白してきた第1段落からだい5段落を振り返り、「我らはかく信じ」と表明した後、代々の聖徒と共に、基本信条である使徒信条を告白することの宣言を成しています。この第6段落までの告白の主語は「我ら」ですから、教会としての共同の告白としてなされることになります。

日本基督教団 信仰告白」 第7段落について

 我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。

この第7段落は、基本信条である「使徒信条」です。この「使徒信条」では主語は「我は」と単人称になっています。信仰告白全体は「我らは」と共同の告白になっていますから、この第7段段落で「我は」を主語とする「使徒信条」告白をすることは、個人としての告白の重みを持って教会の共同の告白をすることです。「使徒信条」の解説は私の能力を超えますから行えません。

日本基督教団 信仰告白」 第8段落について

 アーメン。

この第8段落については解説は不要でしょう。

最後に、この信仰告白全体を振り返ると、信仰告白は、「聖書主義」「三位一体の神信仰」「キリストの犠牲の贖罪による救いの信仰」「神の恵みによる救い」「信仰義認」などが言い表されており、「バプテスマと主の晩餐(=聖餐)の二つが聖礼典であることが表明されていますが、聖礼典がどのようになされるべきかの明確な指針は示されていません。

長くなりましたが、信仰告白についての私の解説は以上で終わります。   (羜十戒