「現代憲法大系1『国民主権と天皇制』針生誠吉・横山耕一著」(法律文化社)

神様が、私に読めと備えられたのか。

 家の近くの中学校区に対応した町の公民館の図書コーナーで標題の図書を発見した。地域のコミュニティーとして色々な趣味の活動(園芸・手芸・料理・旅行・郷土史)等の書籍がおいてある500冊程度の小さな図書コーナーである。
そのコーナーには似つかわしくない硬いアカデミックな本がポツンと混じっていたので、 何気なく覗いて読んで驚いた。なかなか良い本であった。
 その公民館では、政治活動や思想運動のサークルが活動しているわけでもないのに、なぜこの本がそこにあるのかは不明です。大阪府下の公立図書館の蔵書目録をチェックしても大阪府立図書館にしか所蔵されていない貴重な文献です。法科のある大学の図書館ならは所蔵されているかもしれませんが、小さな公民館の蔵書には似つかわしくないものでした。
 私の目に留まったのは偶然ですが、私に読めと神様が備えられたように思いました。

天皇主権とキリスト教の神主権

 早速取り掛かってみましたが、395ページの大冊です。読み解き理解するにはかなり時間がかかりそうです。まず第1部の「天皇主権、天皇制国家の確立、展開、崩壊」を途中まで読んでこの紹介を書いています。
 今まで、多くの天皇制に関する意見や運動に触れてきましたが、天皇主権の考え方の背景や作用について、深く理解するための説明に接する事が無かったから、天皇制=絶対権力をかざす国家権力という程度の認識しかありませんでした。
 この本に接して、誰がどのような視点と思い・目的を持って明治憲法を含む法体系を作っていったのか、どのような背景で作られ、その裏にどのような考え・思想があるのかの解説と点検に接して、問題点の骨子が見えたように思います。
 一見すると、天皇制もキリスト教の神も、共に絶対者として存在しその意味で対立しているように見えます。そのことは事実ですし、1941年に日本基督教団が戦時治安律法としての宗教団体法の下で、天皇の絶対性に異を唱えない事を約束して成立した事も事実です。そこでは、表面的にはキリスト教の神の主権が侵されたのですが、主はそのことも私達の弱さとして受け入れてくださる一段高い権威を持たれていたのです。

天皇制の権威とは

 私がこの本を読んで感じるところでは、明治憲法を制定した天皇制においては、全ての権威・権限は天皇が保持し、それを疑い批判する事は一切許容されない絶対主義的な存在です。そのために国家のあらゆる機関(教育・行政・警察・司法・軍隊)が動員され、それに逆らうものを徹底的に弾圧・排除しました。逆に言えば、そうしなければ維持できない弱い権力でもあるのです。
 それを支えているのは、庶民は時の権力者の許す範囲でしか権利を与えられていない、反旗を翻すものは共同体から排除すべきとの奈良・平安の時代から戦国・徳川の時代を経て培われてきた国民性になのではないでしょうか。
 大和王朝が成立するまでは、天皇による直接な武力支配があったかもしれません。その後は、長年、その時の真の支配者(権力者=貴族・武士)が、宗教的機能を併せ持つ天皇を担ぐ事で、実質的な支配を行なっていた(天皇は実質的支配者にお墨付きを与える役割を強要されていた)のではないでしょうか。
 それが、明治維新のときに薩長を中心とする新興支配勢力が、徳川幕府から権力を奪い取る根拠として、天皇の絶対性を前面に出し、新しい支配体制を天皇ファシズムとして完成させたのではないでしょうか。
 真の権力者は、天皇家天皇個人ではなく、それを利用して時代を支配した、鎌倉幕府室町幕府。信長・秀吉・徳川幕府明治天皇制化の高級官僚達ではないでしょうか。
 その構造は、現在の日本国憲法下では第1条で国民主権の下での象徴天皇が宣言されていますが、それを国民主権の上に置き、高級官僚の思いのままにしたいとの思いが今だうごめいていますので、注意しなければなりません。

譲ってはならない、キリスト教の神の主権

 キリスト教における神は、天地の作り主であり全てを治められる方ですから、勿論、天皇以上の絶対的な権威をもたれています。
 しかし、神は同時に私達(弱い人間)に全てを委ね、私達が自由な意思で神を愛し、また友を愛し、つき従ってくることをどこまでも粘り強く忍耐し待たれ神様であります。
 それは、私達の弱さゆえどうしても神様に従い得ない私たちに対して、一人後を世に送り、十字架に付けてその贖いで私達を受け入れてくださる神様です。
 神様の権威は、私達弱い人間が、一時神様の権威を忘れないがしろにしたくらいで揺らぐような弱いものではありません。どこまでも強いのです。
 その神様が、私たちに互いにに友を認め合って、手を携えて主に従うことを求められているのです。その政治形態が、長い歴史の中で国民主権による民主政治に表されているのです。キリスト教の歴史の中でも、長い間教会の権威によって、時の権力者の支配が絶対の時代がありましたが、それが、マグナカルタを始めとする人民憲章によって神様にこの世を委ねられた私達全員の共同責任において世を治めてゆく事が大切な事が確認されてきたのです。
 ですから、国民主権は私たちにとって神様から委託されたとても大切な事なのです。それを否定する事は、神様の主権をも否定する事に繋がる重大事ですから。信仰をもってその責任を果たすべきです。