「陪餐会員と未陪餐会員」の意味と、「信徒は聖餐に陪することを得」との定めの抹消された理由

「信徒は聖餐に陪することを得」の定めが抹消され、陪餐会員と未陪餐会員の名称が採用された理由。

 確かに教規第138条の未陪餐会員の定義において「幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領し、まだ聖餐に陪しえない者をいう」との表現がなされています。この条文を反対解釈して陪餐会員は聖餐に陪しえると定めてあるという主張をする方が存在しますが、この第138条の条文の目的は未陪餐会員とは「幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領した者」というのを明確にする事にあります。
 1941年の最初の日本基督教団規則ではその第233条に「信徒は聖餐に陪することを得」と定め、第242条に「信徒の子女にしてバプテスマを受け未だ信仰を告白せざるものは之を准信徒と称しその所属する教会の准信徒名簿に登録するものとする」と定めてあったが、1946年に旧日本基督教団規則を廃し、教憲教規が定められる際に、信徒の章(現行の第6章、当時は第7章)において、信徒に対する陪餐停止の定めを新設したために、それまでのように「信徒は聖餐に陪することを得」と定めることが出来なくなったために、聖餐に陪する資格を有していると理解(誤解)される陪餐会員という名称を編み出したのです。
 以下に現行教憲教規の条文と1941年の日本基督教団規則の関係条文を提示しますので、読み比べてください。

現行の教憲教規では「信徒は聖餐に陪することを得」との条文はありません。

 現行の教憲教規において、聖餐に関して定めあるところは以下の通りです。

  1. 信仰告白 「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプタスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の業に励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」
  2. 教憲第8条「聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる。」
  3. 教憲第10条「本教団の信徒は、バプテスマを受けて教会に加えられた者とする。」
  4. 教規第102条「役員会の処理すべき事項(1)礼拝および聖礼典の執行に関する事項」
  5. 教規第104条「教会担任教師は、次の教務を執行する。ただし、伝道師は、第2号の教務を執行することができない。(2)聖礼典の執行」
  6. 教規第134条「信徒とは、教会または伝道所に所属し、その会員名簿に登録された者とする。」
  7. 教規第135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない。ただし、未陪餐会員のない教会ではこの限りでない。」
  8. 教規第136条「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう。」
  9. 教規第138条第1項「未陪餐会員とは、幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領し、まだ聖餐に陪しえない者をいう。」第2項「前項の会員は、堅信礼または信仰告白式を了し他の後陪餐会員となることができる。」
  10. 教規第144条「信徒に対する戒規は、次の三種とする。(1)戒告 (2)陪餐停止 (3)除名

1941年の日本基督教団規則では「信徒は聖餐に陪することを得」と定めています。

 1941年の日本基督教団規則は、国家による宗教団体を介して国家の支配統制を実現するための法体制で作られていましたから、法秩序を乱すものは排除する規則として作られていましたが・・・・。

  1. 規則第229条第1項「信仰を告白しバプテスマを受けたる者を信徒とす。」第2項「信徒は其の所属する教会の新と名簿に登録を受くることを要す。」
  2. 規則第231条第1項「信徒左の各号の一に該当するときは教会主管者に於て長老会若しくは之に殉ずべきもの又は総代に諮りて之を信徒名簿より削除することを得、この場合に於いては次期教会会議に之を報告することを要す。
    1. 三年以上住所不明なるとき
    2. 三年以上教会の集会に出席せず、且つ、教会の経費負担の義務を怠りたるとき。
    3. 其の他教会主管者の於いて信徒たるに不適当認めたるとき。

 第2項「信徒明のより削除せられたる者は之を除籍名簿に登録し五年以上保存すべし。

  1. 規則第233条「信徒は聖餐に陪することを得」
  2. 規則第242条「信徒の子女にしてバプテスマを受け未だ信仰を告白せざるものは之を准信徒と称し其の所属する教会の准信徒名簿に登録するものとする。」

注1:規則第231条第2項の意味は除籍名簿は5年間保持した後は排気して良いという意味ですが、第1項だ3号の定めは、不適当との判断だけで除籍できるようになっている事に注目して下さい。天皇制絶対主義の本質がストレートに出た条文です。この体質を今も保持し続けている一派が教団に居座っているのが悲しい事実です。
注2:日本基督教団規則第8章(第243条〜第257条)には褒章および懲戒について定めてあります。治安維持のための規則ですから懲罰法規としての体裁は非常に丁寧に整っていましたが、信徒については規則第231条第1項の名簿からの削除以外はありませんでした。それで充分だったのでしょう。

「信徒と准信徒」が「陪餐会員と未陪餐会員」に変更されなければならない理由は

 上記の2つの規則を対比していていただけばわかると思いますが、信徒・准信徒と陪餐会員・未陪餐会員の違いは自らの信仰によってバプテスマを受けたか、父母の信仰に基づいてバプタスマを受けたのかの違いであって、それだけでは信徒・准信徒の用語を変更する必要はありませんでした。
 しかし、信徒に対する陪餐停止の戒規が作られたことによって、「信徒は聖餐に陪することを得」との定めを残すと矛盾が発生するために新たな「陪餐会員・未陪餐会員」たる用語を創出して、用語による錯誤・錯覚によって矛盾を乗り切ろうとしたのが現行の教憲教規の立場です。

「信徒(や陪餐会員)は聖餐に陪することを得」との規定は削除されました。

 1946年当時は信徒は聖餐に陪することを許された存在で、准信徒は聖餐に陪することを許されない存在であったとの理解が普通でしたから、また、教派によっては聖餐に与る資格を制限する戒規が存在するのが当然であるとの考えが普通でしたから、自然な変更として受けとられたのかも知れません。
 しかし、私はここに神の聖霊のくすしき働きを感じます。この条文の削除によって、WCCやNCCを通じて検討される事になるエキュメニカルな教会一致の流れの中で、聖餐について自由に論議し試行するユトリが与えられたのです。

未陪餐会員に「まだ聖餐に陪しえない者をいう」との条文が入ったけど

 信徒・陪餐会員に対して、積極的に「聖餐に陪することを得」と定められなくなったので、今まで書かれていなかった准信徒に対して「未だ聖餐に陪しえない者」との説明が追加されましたが、第138条の本旨は未陪餐会員の定義の中心は父母の信仰に基づくバプテスマを了した者にあります。
 たしかに、(準則)第11条第1項では、陪餐会員と未陪餐会員の定義を、「聖餐にあずかる資格のある信徒を陪餐会員、聖餐にあずかる資格のない信徒を未陪餐会員とする」と定めています。
 しかし、教規における用語の定義はそれと違います。同じ用語に二つの違う矛盾する定義をしてはいけません。準則の定義に従うと、陪餐停止の戒規に付せられた信徒は、聖餐にあずかる資格が無いために未陪餐会員にしなければならなくなるという矛盾に突入するのです。
 其の矛盾が、「信徒は聖餐に陪することを得」との条文を削除しなければならなくなった原因なのです。

教憲教規を正しく読むためには

 以上説明してきたような事実には、、教憲教規の制定の歴史や、変更の歴史、更に其の条文がどのような目的を持って定められているのかについて、丁重に読みこなし理解する事が必要です。
 そして、丁重に読むと現行の教憲教規は、時代の制約を受けた欠点も若干残っているが、全体としては民主的で穏当なものであることが判り、守るべきものとして大切に出来るでしょう。

教憲教規を汚しているのは、不勉強な信仰職委員会の一部(主流派)の皆さんの見識

 私が、このように思うに至った最大のきっかけは、内藤総幹事が監修した『先例集(改定版)』の53「教会規則準則の条項の増減、修正について」同56「準則第8条の削除について」を拝見したことにあります。
 この二つの答申は、信仰職制委員会がいかに教憲教規をまじめに読んでいないか、諮問でなにを問われているのかを理解する事も出来ないほどの不勉強である事を明確に表しています。不真面目・不勉強の証拠書類なのですが、それを恥ずかしげもなく印刷し出版するところに、いつか正すから今は時をまてとの主の御心を感じました。
 おごり、得意になって行なっている行動の中にも主のくすしき御業の働きは確実に成されている事を思いさらせれます。その主の御業が、私達が愛する日本基督教団の立ち直り、悔い改めに繋がると信じさせてくださるエネルギーになっています。御心ならば、傷つく人が少ないうちに一刻も早くよき時が与えられますように。