北村裁判は、日本基督教団における「リンチ=戒規免職処分」の無効を勝ち取る闘い

12月3日「北村滋郎牧師を支援する会」発足集会

 12月3日横浜の紅葉坂教会に、北は北海道、南は鹿児島から全国各地から広く参集した北村滋郎牧師の裁判を支援する141名の出席者によって「北村滋郎牧師を支援する会」の発足集会が開かれました。
 集会は、関田代表の挨拶で始まり、北村滋郎さんの免職処分経過報告の後、弁護団の紹介と弁護団よりの訴状の解説があり、その後、全国各地からの参加者からの激励・挨拶がありました。どなたからの発言も、現教団執行部とその中に巣くう一派による、人権無視の、組織運営の原則無視の見せしめ的暴挙に対する怒りと批判に満ちたものでした。
 裁判では、信仰の根幹にかかわる論議に入ることは出来ないという難しさの中での困難さはありますが、教師委員会が審査の受付から判断するまでの全ての手続きにおいて、公正・公平を欠き、また判定結果も教憲教規に照らしても不当であることを明らかにして、免職をとり消させ、北村教師の牧師としての地位を確認させること、またその不当な処分によって北村教師が受けた実質的および精神的被害に対する賠償を求めることの展望がはなされました。

裁判の第一の目的は、北村教師への「リンチ=戒規免職処分」の無効を勝ち取ること。

 この裁判の第一の目的は、当然のことですが、「正しい聖礼典の執行」を主張する一派による、北村教師への「リンチ=戒規免償処分」の不当性を明らかにし、その無効を勝ち取ることです。
 あの一派が「正しい聖礼典の執行」を大切に思うことは勝手ですが、それと同じように「開かれた聖餐式」を求める考え方もあり得るのです。教憲教規の条文を丁重によく読んでください。バプテスマ(洗礼)や聖餐式のあり方に関しての直接的な定めは避けられており規定されていません。
 教憲第8条では「聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる」と有りますし、教規第102条の教会役員会の処理すべき事項の(1)には「礼拝および聖礼典の執行に関する事項」と定めがありますが、不思議にも直接的に聖礼典のあり方やその参加資格についての定めをした条文は存在しません。唯一それに触れて定めているように見える教会規則(準則)は、例文であり従うべき規則ではありません。

 教憲教規にその行為を成したならば処分すると明確に規定された条文が存在もしないのに、自分達の思いだけで教憲教規違反を叫び、他に明確に存在する教憲教規違反は問題にしないでおいて、北村牧師の場合にだけ一方的に問題にして処分するのは、自分達の思い込み(私法)を根拠にしたリンチ以外の何者でもありません。

裁判の第二の目的は、北村牧師の名誉権(人格権)を著しく侵害されたことに対する損害賠償請求

 この裁判の第二の目的は、不当な免職処分を公表(公告)することによって発生した、北村牧師の名誉権(人格権)が著しく侵害されたこと。また教団の教師退職受給権の一部消滅(年金額の25%カット)などの実害も発生していますので、実質的損害ならびに精神的苦痛に対する慰謝料を請求するのは当然のことです。
 他人に損害を与えたら、当然その賠償をしなければならないという至極当然なことを、一派に知らしめるためにも、損害賠償も勝ち取らなければなりません。彼らの破廉恥な行為は、それだけの金額に見合うほどひどいものだということを明らかにする闘いでもあるのです。

北村牧師は教憲教規に違反する行為は行なっていません。

 一派から問題にされている北村滋郎牧師の行為は、紅葉坂教会総会の決議に従って聖餐式を執行したものです。紅葉坂教会は総会決議で紅葉坂教会規則変更して教会規則に違反しないように手当をした上で、北村牧師に聖餐式執行を指示していました。
 教憲教規には聖礼典の執行については、役員会が判断する事であると定めてありますし、聖礼典は按手礼を領した者がつかさどると定められている教憲第8条に違反しているわけでもありません。北村教師の教会役員会の決定に従った行為がもし教規に違反する条項があれば示してほしいものです。

 北村牧師への「戒規免職処分」強硬は、違反した事実の特定と違反条項の明示をしないまま行なわれています。教憲教規違反として処分する場合の正当な規則の適用判断ではありえません。
 一派の中にある「教憲教規と異なる明示できない私法」による判断の適用を、一部の熱狂的な支持者の後押しを受けて権力者が不当に執行したもので、リンチと呼ぶしかありません。

 北村教師を免職処分しようとする一派は、常議員会による戒規申し立てが第36教団総会において第44号議案の可決によって不当と差し止められた後に、自らの支配下にある教師委員会において戒規の提訴権者の定めの内規を変更し、誰でも戒規申立出来るとした上で、北村教師に関する戒規申し立ては受理し、他の全て申し立ては不受理(わたしの提出した戒規適用申立書は、内容を改竄した上で不受理を決定)としました。

西部劇のリンチシーンにたとえてみると

 西部劇であるならば、地方の悪徳ボスによって町のシェフや判事達が地方の私法でリンチ・処刑しようとした時に、正義の連邦判事が現れて、リンチをやめさせ、地方ボスの悪事が明るみに出されて、地方ボスが追放されると展開してゆくわけです。それが、この裁判の意味なのです。
 東京教区を中心にした全員連規制という縛りで見かけの多数を獲得し、悪徳を働く地域のボスによる支配によって、正しく機能できない教団会議が、国の司法の場で世間常識の洗礼を受けなければならないのです。

裁判のもう一つの目的は、「教憲教規の正しい理解と執行」を求める闘いの前進です。

 このサブタイトルについては、異論があるかもしれません。リンチを行なう一派が規則を守れ・教憲教規に従えといいながら無法を行なっている現状の中では、そのような思いになるのは仕方ないのかもしれません。
 しかし今一度、教憲教規を丁重に読んでください。ただ『「日本基督教団○○教会」規則(準則)』(私は悪魔の書と名付けています)の部分は教憲教規とは異なる価値観で作られ紛れ込んたものですから、取り除いて読んでください。そうすれば教憲教規の考えが見えてきます。
 現行の教憲教規の根幹は1946年の教憲教規制定以降、1962年の第12回教団総会における機構改革で作られたものです。組織を民主的に運営するために話し合われ変更整備されてきたのです。その動きは多分1968年まで教規変更真で続きました。それまでに作られて教規の条文にこめられた思いをもう一度見直しましょう。
 この項は、書き出すとますます膨れて行きますので、後は別の機会に。